Q145:子育て・家族そして生き方

junさんからの質問

2回目の質問お願いします。
1回目の質問では「諸悪の根源は罪悪感にあり」というご回答をいただきました。


🔴その時の質問回答↓


いつもブログ拝読させていただいております。
junと申します。

恐らく30年くらい前から社会不安障害でパニック障害もありますが薬は飲んでおりません。
夫と小学生の子供2人の4人家族です。 


①質問の内容
1人が怖く特に主人が出張で夜子供たちと自分だけになると恐怖でほとんど眠ることも出来ず朝を待ちます。(普段は朝までぐっすりです)

緊張で激しい動悸に襲われ死の恐怖に襲われます。子供がいない時はさらに恐怖でした。泊まりの出張は最近は少なく助かっていますが克服したいです。


②それに対して、自分が考えている、または感じていること、思っていること。

周りのママ友は旦那さんが単身赴任でも逆に楽だと言うくらいなのに、私は何て怖がりで弱虫、まるで子供みたいだ。いや、子供でも出来るかもしれない。

大人になれば自然に出来ると思っていたことがなぜ出来ないのかと劣等感を感じます。怖いけど逃げずに克服したいです。眠れなくとも1人時間を楽しめるくらいになりたいです。


③自分で行っている具体的な対応策。
怖くなることは分かっていますが、なるべく眠れるように昼間よく歩いたり運動する。

怖いけど大丈夫、いつものこと。と言い聞かせる。概ね恐怖に支配されるので怯えながら時間が経つのを待ちます。

うまく伝わらないかもしれませんが、どうぞよろしくお願い申し上げます。


回答


一人でいる事が怖くなってしまう人は多いです。
もちろんパニック発作症状が出てしまったら、大変なことになると思っているからであり、毎回のように何事も起こらないように祈りながら、自分の状態を監視しています。

しかし実は毎回こうした事になったとき、ひそかに毎回自分にしてしまうことがあります。今回はそんなお話。

結論として、私がお伝えしたいのは「自分に罰を与えないで」です。

あなたは文面の中で対処の仕方として「怖いけど大丈夫と言い聞かす」とありました。
「怖いけど大丈夫」は正直納得いきますか? 

なぜそうした言葉を発するのでしょうか?

安心したい。
気を紛らわしたい。
大丈夫ではない自分を意識したくない。

しかし事実は、すごく「自分のことを、今大丈夫じゃない!」

と思っているのが、今のあなたの事実です。

事実に反することを、いくら自分に言い聞かせても、事実に目がいってしまうのが、心のカラクリであります。

「大丈夫!大丈夫!」といくら言い聞かせても、大丈夫じゃない状態は見えているはずです。

そして厄介なことに、そんな本音とは異なった言い聞かせをして、なんとかその日、その場をやり過ごせているから、余計にその言葉無しではいられない。

でもその言葉を必死になって言い聞かせている以上は、あなたの自分への価値を下げてしまうことに繋がっているのです。

「大丈夫じゃない状態」をなぜ意識したくないのでしょうか?

そこには不快な症状を感じたくないということだけではない、他のものがあります。

いったい自分の中の何が「刺激」されるのでしょうか。大丈夫じゃない自分がなぜ、自分の中に存在していてはいけないのでしょうか。 

完全でありたい何事にも。
どこかで思ってはいないでしょうか。

しかしながらわかっているはずです。
自分はいつも大丈夫なんてことはない。
これはパニック障害になる前からわかっているのとです。誰もが完全体なんてない、そして自分も完全体ではもちろんない。そんな事は誰でもわかることです。

でも今やあの、いまわしいパニック発作が出てきてしまうと、私の中で完全であらねばならないという気持ちが出てきてしまう。なぜならば「完全体ではないと、私は○○ということになってしまうから」

自分に対してどんな○○評価を与えていますか?
状況から、あるいは他人からあなたは何かを求められたら、どのような対応をしますか?

あなたの言葉にこんな事が書かれていましたね。

「周りのママ友は旦那さんが単身赴任でも逆に楽だと言うくらいなのに、私は何て怖がりで弱虫、まるで子供みたいだ。いや、子供でも出来るかもしれない」

「大人になれば自然に出来ると思っていたことがなぜ出来ないのかと劣等感を感じます」

自分の評価がすべて「比較」を出発点にしているということ。

「周りのママ友は…大人になれば…子供じゃあるましい…」 

「こうだったら、こうなってるのが当たり前なのに…私といったら!」

こんな考えを基準にしていたら、誰でも劣等感を抱えることになります。そしてその劣等感をひた隠そうとします。必死です。

劣等感というのは、比較から生まれてくるのです。 

おそらくあなたの症状は、書かれているもの以外にも多数あるのかもしれませんね。あくまで今回書かれていることは、直近の中の一部。生活に密着している毎日のことでありますから苦しみも大きく感じられ、ご質問に至った事と思います。

しかしながら症状は結果に過ぎません。
それはあなたが毎日のように無意識にやっている、「幻想でしかない完全体」という理想に自分をはめこもうと必死になってきた結果です。 

他人と常に比較しては自分はダメだと罰を与えている。罰なので、罰を与えるべきことに目が向き、罰を与えるような出来事ばかりを拾い上げるようになるのです。

自分は罰せられるべき存在だと、どこかで感じるとしたら、それは大きな自分に対する罪です。

「いつも、こうあらねばならないのに、私はいつもこう!なんで?なんで私はいつも…」 

こんな事を、事あるごとに無意識に呟いていたとしたら、一人になってあなたの身に起こることは、誤解を怖れず言うのであれば、それは神からの啓示です。

日常の「自分へのあり方」をもっと優しくした方がいいです。あなたは30年という長い間、今日まで生きてきました。いいかげん自分にうんざりと感じているだけで、30年間もこの状態を生き抜いてきた自分を誰と比較することもなく、ただ自分を愛おしく褒めたことはありますか?

比較はやめておきなさい。
比較に気づきましょう。
それは自分をおとしめる罠です。
そして自分の中にあまり他人を宿し過ぎないように。

自分の中に、これが今の私であることを認め受け入れ、育てていきましょう。少し難しいお話だったかもしれません。

しかしながらパニック障害になる人の多くは、自分に常に罰を与えている傾向があります。罰に気づき、そして、それはもう自分には必要のないものであると自覚しましょう。

そうすれば自然に自分を罰しようとする場面に出くわすことが少なくなってきます。罰する必要があると密かに思っていれば、罰する場面に出くわすしかないのです。

「あー、また自分に罰を与えてるでしょう!?そんな自分に気が付いているよ」 

今回書いた内容に合点がいくようでしたら、そんな実況中継も入れてみるといいでしょう。

そして胸をポンポンと叩き、かるく深呼吸してみましょう。息をスゥ〜と静かに吐いた時に感じる、小さな穏やかな感覚を感じてみるのです。

あなたの中にも、「自分でいいじゃん」と思えるような日がやってきますように。



🔴今回は、同じ内容での追加質問です。
前回のご回答を何度も読み返し、自分なりに解釈した上です。


①質問の内容(事実)

1人が怖く特に夫が出張で夜子供たちと自分だけになると恐怖でほとんど眠ることも出来ず朝を待ちます。(普段は朝までぐっすりです)

大人が自分1人でも夜中安心して眠れるようになるにはどうしたら良いでしょうか?(子供たちはまだ幼いので、変に怖がらせて私の怖さが伝わらないよう、症状のことは一切話していません。子供たちは朝まで熟睡です。)

と言うのが前回の質問です。


②それに対して、自分が考えている、または感じていること、思っていること(解釈)

前回のご回答にありました
「怖いけど大丈夫」は、確かに納得はいきません。全然大丈夫じゃないです。

そこで、大丈夫じゃない怖がりの自分を受け入れた時、受け入れても容赦なく不快な症状は襲ってきます。朝まで恐怖と共存しながら実況中継するのはつらく長いです。

怖がりの自分に寄り添い、回避は出来るだけやめて慣れて克服したいという気持ちはあります。


③自分で行っている具体的な対応策(行動)
今までは、夫の出張時には母に来てもらったりしていました。完全な回避な行動です。とにかく1人が怖いので24時間営業の店を探したり…これも意味がないことは分かっています。

今までの行動が悪化させてきたのだと思います。
1日1日を丁寧に生きる。
今はそうしています。

乗り越えられるか不安で怖くてたまりません。
何が1番怖いかと言いますと、あまりに激しい動悸、緊張による痺れで、死の恐怖に襲われた時に誰にも助けを求められないこと。

どうかアドバイスをお願いします。


回答


人から発せられている恐怖には、二段階あります。

やってくるであろうと常に思っている、最悪な出来事を「乗り越えられるだろうか」と考えるとき、あなたのその思考スタイルが、まず第一の恐怖を生み出しています。

あなたの中に「乗り越えられないに違いない」がすべての前提にあります。もちろん、それを思うには過去の体験からの根拠があるのでしょう。

しかしながら実は、まずは起きた時のことで怖がっているのではなく、まず「乗り越えられるだろうか」と考え始めた時に恐怖は始まっていて、その第一の恐怖感が発端で、次にまだ起きてもいないけれども、起きた時の想像、言葉がツラツラと頭の中を行進し始め、そこから「乗り越えられないに違いない!」となり、第二の恐怖が生まれていきます。 

恐怖には二つあるということです。

考えていることに気付いた時に、第一の恐怖が生まれ、それに引きずられるようにして、あっという間にストーリーが繰り出され、第二の恐怖が練り歩き始めます。

乗り越えられるかどうかは、誰にもわかりません。頭の中では乗り越えられずに右往左往している繰り返されるイメージだけが、すでに進行していて、まさに今後起こるに違いないという信念を繰り返し、毎晩のように、あなたの脳は学習を強いられているのです。

「乗り越えられないかもしれないじゃないか!」 は自分自身の妄想の中を根拠にしているに過ぎません。事実を根拠として確信しているのではなく、あなた自身の妄想の内容が恐怖の根拠です。

「いや、過去の体験があるんです!」

たしかに過去の体験がその妄想を引き起こしているのは間違いありません。しかしながら、妄想はすでに過去の体験以上の出来事を広げているのではないでしょうか?

すぐにその場で恐怖を打ち消す方法、考えないでいられる方法は、残念ながらこの世の中にはありません。関心が強ければそれは必然となって、人の心に生まれてくるものです。

そして実際の体験ではなく、妄想の中身に関心が強いということをお忘れなく。

恐怖を打ち消さず、考えてしまっていようとも、それは単なる思考(妄想)での世界から生まれたもので、事実からではなく、思考から生まれた気分にとらわれているのだと、毎回のように気付きを放り込んでいくことです。

ある期間、この無策に思える方法ではありますが、水面下では着々と、恐怖や繰り返される不快な思考への抵抗力が身に付いてきます。
 
その結果として恐怖があろうとも、不快な思考が、繰り返されようとも、俯瞰して自分を眺めることができるようになってきます。これが受け入れるということです。

そしてやがて恐怖に動じなくなり、不快な思考をコントロールすることを手放すことができるように変化していきます。

気付けば、恐怖さえも考えていることさえもなく、1日を過ごしていることに気付くことに行き着きます。

第1の恐怖、そして第2の恐怖への繋がりに気付きましょう。第1の恐怖は避けられません。考え始めた時、ジャッジせずにこれから第2の恐怖が始まってくるぞと、前もって気付きをいれておくと、これが客観視に繋がり、それほど大きな思考にふりまわされなくなっていくでしょう。

「言われてきたように、書かれてきたようにやってるのに、まだそれがあるんです」は受け入れている事とは違います。

受け入れていれば、まだあることに対して、こだわる必要がそもそもありません。

こうした訓練を通して、やがては「もうどうでもいいや」と心から思えるようになります。良い意味で開き直れるようになります。体感としてわかってくるまで訓練を繰り返していきましょう。