Q167:自分の持っている嘔吐のイメージで怖くなっている

もふもふさんからの質問

私が一番恐れているのは「嘔吐に遭遇する事、そして自分が嘔吐する事」です。

だから、この時期に流行る胃腸炎がとてつもなく怖いのです。

ちょっと腹部に違和感を感じるだけで「どうしよう!気持ち悪くなっちゃうかも!」とパニックです。

子供が就寝中に咳をするだけでも「もしかして吐く?!」とヒヤヒヤドキドキです。

正直言ってしまえば、吐かない病気やケガならば怖くないのです。(そんな保証のある病気なんて無いと思っていますが)「嘔吐」に直結するものが怖いのです。

車酔いもしやすい我が子ですので、車移動も恐怖です。

子供には嘔吐恐怖やパニックにはなって欲しく無いので、粗相をしても叱ったりせずに大丈夫だよー!と言っています。(自分に言い聞かせる為でもありますが)

食事も苦痛に感じてしまう時もあります。
保育園からいつ、「嘔吐した」と呼び出しがあるかも毎日ヒヤヒヤドキドキして過ごしています。

喉と胃の辺りがしんどい毎日です。
常に胃もたれのような怠い感じと喉の閉塞感です。

安定剤も手放せません。
その他漢方も飲んでいます。

まずは自分の中の「もしかしたら」に気づいたので先ずはご報告とそこからどうしたら良いのかを具体的に知りたくてまたコメントしてしまいました。

よろしくお願いします。


回答


嘔吐に対するイメージはどんなものでしょう。


例えば。

苦しい…
どんな?
息が詰まるような…
詰まるとは?
死んじゃうかも…
それは本当か?
確かに死ぬ可能性もあるかも…
とはいえ…
簡単には嘔吐では死ねないようになっている。
なぜならば、嘔吐はそもそも生きるためには、必要なカラダ側の措置だから。
これは当時、私が自分に対して言っていたことです。

このようにしてカラダ側からの言い分にも、意識を傾けてみましょう。そうすると、コントロールできる事と、できない事がはっきりしてきます。

もちろん苦しみはコントロールできない事なのにコントロールしようとするところから発します。まず、そこをちゃんとチェックしましょう。

もちろん、これで全てが解決するわけではありません。ただ人間、不安や恐怖に取り込まれると、自分の中の思考の選択肢がグッと狭くなります。

そんな時、解決法が無いように思えます。しかし世の中には、今自分が抱えているあらゆる悩みを解消している人が必ずいます。自分がいっぱいいっぱいな時、そこが見えなくなります。

私だけが苦しんでる。
こんな苦しみはきっと私だけ。
孤立感まで感じてきます。
そんな状態で自分自身だけで、希望を見出すなんて、とても酷なように思えてきます。

そんな時はこうしましょう。

「あの人だったら…どうとらえるだろうか?」
「もし大切な友人が同じような事を言ってきて、私に助けを求めてきたら…どう言葉をかけてあげられるだろうか」

問いかけは大事です。

そして次に

「吐き気側」の立場を考えたら、嘔吐というのはどんな役割を果たしているのか。考えたことがありますか?

とっくにわかっているであろう、その事実を再度確認しておきましょう。

その上で…嘔吐に自分が、もしくは光景に遭遇することの恐怖感に襲われた時に、どう対処するのか。

あなたがその恐怖を感じるときに、カラダのどこで感じているのかを知りましょう。この不快感があなたの思考を暴走させます。それはカラダのどこで感じているでしょう。

それがわかったのなら、あなたの思考ではなく、あなたのそのカラダの不快感をしっかり観察しましょう。カラダの声に意識を向けましょう。

その不快感は一定ですか? 今にも高まっていきそうな感覚でしょうか? 実はこうした不快感は、上がったり下がったり、大波小波、寄せては返す波の状態にあります。ここを何度か観察するという行為を通して確認しましょう。少し時間がかかるかもしれません。さりげなくでいいです。集中しすぎない程度に。

不安にとらわれ始めると、なかなか自分の不快感を見ることができなくなります。しかし見なくてはならないのはここです。

この波ともいうべき状態なんだという事実を、ちゃんと確認を取ってくる事です。

そしてその不快感はただ、そんな状態を体験させるだけで、それ以上の何かを自分自身に及ぼすものではない事を、毎回の中で確認していく事です。

しかし事実はそうなのに。なぜ恐怖感に?
それは事実の中に恐怖はなく、ただあるのは、こうした現象が起きているだけ。それに反応してあなたの頭の中で想像が膨らみ、今まで起きてもいない最悪な状況が展開され、それが繰り返されていくうちに、事実かのように学習してしまっているのです。

その間違った頭の中のストーリー(解釈)を、こうしたカラダの反応を手かがりとして直面して、繰り返し受け入れていく意識を少しずつ育てていくことです。

事実は何なのか。
事実の中には脅かすものは何もない。
これは私にとって生かすためのカラダの必要な対応に過ぎない。

感じてくる不快感は本来の働きとは逆行した、カラダ側の苦肉の策であり、致し方がないために出すという行為をせざるを得ない(嘔吐に関して)こと。

なので苦しいと感じるそれは肉体的にはそうせざるを得ない現象であるという事実。 

そこにきて私の恐怖は何なのか。
それは事実を目の当たりにしたときに、向こう側の策を見ずして、自分の頭の中のストーリーが強大すぎて、頭の中のストーリーにとらわれている状態である。

大回りに話してしまいましたが、抱えている「こうなるんじゃないか…」へのとらわれは、全て頭の中なストーリーであり、そのストーリーに反応したカラダの不快感は波状であり、大きく発展していくものではありません。寄せては返す波の感覚が、より大きな波を想像させるだけなのです。

この事実を体験したとき、発作症状が出ても、予期不安が出ても

「あー、いつものね。でもこれは一定の力しか持ち得ない。感じ取ったはじめの感覚がピークなのだ。私がそれ以上に感じるのは、頭の中の思考が暴走しているだけなのだ。だから大丈夫。しばらくこの波と共にいよう。そして私は大丈夫。今する必要がある事を、この波と共にしばらく過ごしていよう」

ストーリーが回り続けていることで、事実と解釈をごちゃ混ぜにしているから、いつも毎時間のように不安にとらわれっぱなしなるのです。

…という理解が必要です。
そして事が起きたあとに、こうした振り返りを、きちんとしましょう。

難しい話になっています。
長くなりました。繰り返し何度も読み返し、理解を深めてくださいね。機会があればカウンセリングを受けてみてください。