Q210:いちいち関心を持たないことが回復への道

すみさんからの質問


以前、買い物中に地震のように頭が揺れる質問をしました。それから、この感覚を経験する為、同じ場所に何度も行きました。

その場所の中の1つは、上の階にパスターミナルがあり、バスが走る度に地ひびきをたて店内が揺れる場所です。その場所は私のお気に入りのお店です。

出掛ける時は予期不安なく、行く事は面倒ではありません。バスが通れば揺れる覚悟は持って行きます。もちろん逃げ帰る事はしません。気持ち悪くなるのもわかっているからです。

この場所以外に揺れる感覚を感じる空間が何カ所か持っております。正直、逃げずにジッとしている間の、気持ち悪さは慣れません。そこで、気になりだした事があります。

店に入ると直ぐに、まだバスが通って無いのに揺れをすでに感じる事と実際にバスが通ると店内が揺れ、私の中も揺れを感じ、バスが通り過ぎても私の中の揺れがまだ続きおさまるまでしばらく続きます。毎回です。

今までは、私が予期不安を持って行っているから、当然不安が来て、思考の暴走で身体症状が出ていると解釈してましたが、でも実際に揺れているし、他人は「揺れてびっくりした」だけで気持ち悪い感じはしないといいます。

この違いは、なんでしょう?

私は、人より神経過敏で揺れの感じ方が人より強く感じるだけでしょうか?この場所は揺れると予期して向かっているから揺れを実際よりに強く感じてしまうのでしょうか?

どうして他人以上に揺れを毎回のように感じるのかわかりません。私はまだ予期不安が残っていることに気がついて無いだけなのでしょうか?
よろしくお願いします。


回答


揺れという感覚に対する、とらえ方は、人様々ではあります。揺れてビックリしたと解釈するぐらいでスルーできる人と、なかなか慣れずにビクビクする人もいるでしょう。しかし、それも一時的な感情の高ぶりで、あとは今必要なことに意識を戻せているに過ぎません。


あなたの場合は、常に神経を張って「監視活動」をしているのです。予期不安もないとはいっても、やはり揺れが来る前から揺れを想定してるし、揺れがきたらきたで、その最中を意識しているわけです。

起きて欲しくはない、自分の中の不快な感覚を、いつも見張りを張ってる状態で、以前よりは取り乱さないまでも、いつまた起こるかもしれない揺れを、監視活動をして、その兆しがあれば、不快な状態を少しでも和らげたい気持ちが出てくるのです。

起きることはお約束であるとわかっていても、やはりどこかで、それが起きているかどうかの監視の手を緩められていないわけです。

それは症状を追っていることになるために、完全な受け入れとは異なります。ちょっとでも揺れを察知すれば態勢を整えておきたい気持ちがあるのではないでしょうか。

揺れにこだわらずに、やれることができれば、それで良し。

そのぐらいの心持ちでいることが良いわけで、やってるんだけど、不快な感覚があるということにとらわれていれば、いつになっても神経の過敏さを緩めることができません。

いざ発作が出てきた時に、おさまるのをジッと我慢して待つ、これも段階の初めには必要なことです。しかし、いずれ揺れの感覚、不安を持ちながら、ジッとせずに買い物を続けるスタンスでいる必要があります。

そうならないと、店に入った途端、「今どうだろうか」といった監視活動に入りながらの店内巡りとなります。

「そもそも何をしに来たのだ?」という事にフォーカスすると共に、症状が出てきても、なおそれと共に、今やっていることを動きを止めずに、症状、不快な感覚と共に行動をしていくことです。

出てきた症状にあれやこれやと評価をせずに、そのまんまにしておくことができるようになれば、店内に入った途端始まる監視活動をしなくなり、「あったところで、何か?」といったスタンスで、していることに集中できるようになっていくでしょう。