Q223:コロナ禍において、あなたが心がけること


みちこさんからの質問


いつも、更新ありがとうございます、私はブログにもあるとおり、日々自分を監視しています、なかなか観察にもっていけてないのですが、不安薬をお守りとしてポッケにいれて、生活しています。


仕事も月90時間ほどできるようになり、自信がついてきた最中に始まってしまった、コロナさん。


ただでさえ、監視するのが日常のゆえ、少しの咳や、痰がからむ症状にもしや、コロナ?と、すぐに結びつけてしまい、そこからはそわそわして、お薬を飲むときもあります。


昨年10月の健康診断では、どこも悪くなかったので通常なら安心して、病気じゃないから、息が少し苦しくなって、咳がでても、検査したから大丈夫って、自分を納得させることができるんですが、コロナが始まってからは昨年のデータは当てにならないので、そこから不安ループの始まりです汗!!


職場で少し咳をすると、まわりからあれ、コロナですか?って言われるしもちろん冗談ぽくですが、それさえも、もしかして。。。と、思ってしまいます。。。


熱は、ないし、味覚、嗅覚もあるし風邪だとは思うのですが絶対に風邪とは言いきれないし、もう、どうやって、このコロナ渦を乗りきって行くか分かりません!


気軽に検査ができる地域ではないし、先生どうか八方塞がりのわたしにアドバイスください!お願い致します!支離滅裂ですいません汗。



回答


自分の邪魔をする出来事が起こると人は、失望感に包まれ、良からぬことを考えがちです。

思ってもみなかったことが起こることは、人生の中では何度もあります。しかしなかなか想像したこともなかった状況に陥る一場面に自分が遭遇してしまうことがあります。


それが今回の「コロナ」だったりするのではないでしょうか。世界的にも思い、動向は似ていて、ある意味歴史的な出来事に私達は身を置くことになってしまいました。


しかし、人はそして人類はそんなにやわではありません。叡智を結集して、世界的に一体となって終息に取り組んでいます。いずれはコロナもそんな時を迎えるでしょう。


しかし、今だけを見れば、当然不安なことだらけ。生活も制限され、先行きすら不透明なところばかりに目が向きがちです。


コロナが私達の生活に大きな影響を受け始めてから、はやくも一年。私のもとにも、コロナ不安によって、うつ症状になったり、不眠に悩まされたり、パニック障害になってしまった人からの、カウンセリングの依頼が昨年の夏以降急激に多くなりました。


心の病など考えてもみなかったであろう、そうした人は、自分の状態に戸惑いを隠すことはできず、自分をなかなか冷静に見ることも、物事の道理をわきまえることすら困難な人が大勢います。コロナが長期化すれば、それはこれからも老若男女問わず多くなってくるでしょう。コロナウイルスの影響はこうした心の面、そして人と人、国と国の分断にまで発展しかねません。


さて今回のあなたからのご質問は、カウンセリングのご依頼でもよく質問を受けることです。つまりあなただけが、考え悩んでいることではないということ。


つまり自然とそうなってしまいかねない緊急事態に私達は、終息の日まで生きていかなくてはいけません。ここはいくら自分が否定しようにも否定できないところであり、それが事実であります。


そんなある意味では自然な流れ。好ましくない流れながらもこんな時期をどのようなことに心がけて生活をしていけばいいのでしょうか。


こうした時期というのは、「安全・安心」欲求が過度に高まります。


そうした欲求が高いときは、自分だけではなく、他人の動向にも監視の目が向きやすくなります。そんな状態は非常にフラストレーションが高まりますから、イライラしたり、精神的にもおおらかさを失いやすい状態に置かれます。


そしてどうにかしてそんな状態から脱出したいがあまり、どうにかしたい気持ちをいつも抱えるようになります(コントロール欲求)。


そんな状態になれば、現実的な見方ができなくなります。事の経過を待てない、頼れない、委ねられない状態は自分の思考の枠内だけで、とんでもない妄想ごとへ発展しかねません。


まず、そんな状態に、あなただけではなく誰もが陥るということ。そして現に今のあなたはそうなっています。それを受け入れること。


そして安全・安心が脅かされているがゆえに、安全・安心に対する要求度が高くなり、それが叶わなければコントロールして欲求を満たそうとします。


しかし必要以上に高い欲求は、現実ばなれしたことを自他ともに要求することとなり、当然叶わないわけですから、悪循環にハマります。


あなたは気付かなくてはいけません。


自分の欲求の高ぶりが、日頃の「万が一」思考を引き起こしているということ。そしてその「万が一思考」が思考を暴走させ、自分の足元の生活そのものを丁寧に営めなくなっていること。


こうした事態に心がけておく事はとてもシンプル。むしろシンプルにしておかなくてはいけません。複雑なスキルで持って対処をはかえって自然な成りゆきと戦いを挑むようなもので決してうまくいきません。


万が一のためにやっていることを今以上に増やさないこと。(お守りものを含む)


情報を多く取り込まないこと。


自分の中の怖れは、思考によって生まれ、育っているということ。


「万が一」は単なる思考であること。考えてしまうことをジャッジせずに、そんな思考を体験しているに過ぎないことを自覚すること。


事実かのように見えてくる自分なりの不安は、行き過ぎた繰り返される思考によってそうなっているだけであるということ。


「もしだったら?」は事実ではなく、思考であることに気付きをいれ、実況中継をしっかりすること。


どんなに不安にかられても、それは今は起きていない「万が一ネタ」から。その万が一は「その時にその時の自分しか対処できない」ことを受け入れること。


セドナメソッドを使えるならば、使ってみること。


クレア先生の4つの原則をもう一度しっかり復習すること。


この場での理解だけではなく、その時その時に、これらを意識、実践することを心がけてみましょう。


今の状況は浮かんで通り、時間の経過に任せるとともに、それでも今必要な毎日の生活を、それら不安という不快な状態をそのままにしておくることですよ。